kameariryoの日記

広カエデ丼のブログ WTとか写真とかレポートとか

大学レポート「大津事件から日露開戦に至るまでの日本人のロシア認識の変遷について」

 

    

日本人のロシア認識の問題について

俺が大学で使ったレポートを使ってそのまま論じてみた。

超駄文なので見たい人だけ見てくれ!

                

 

明治時代の日本人のロシア認識はたった十数年で急激といっていいほど変化した。明治期の日本人がロシアに対して最初に抱いた認識は「恐露」である。その理由は日本の北方に覆い被さるように世界の六分の一を領土として持っていた巨大な大国の上に、当時のロシアは世界最大のシベリア鉄道を建設し、不凍港を確保すべく線路を中国の旅順港ウラジオストクにまでを線路を伸ばしてきている。当時日本領土であった朝鮮に勢力を伸ばしていた。

日本人の「恐露」が更に拍車を掛けたのは1891年5月に起きてしまった、津田三蔵という警察官が当時のロシア帝国の皇太子であるニコライ二世をサーベルで切りつけた事である。

当時のロシア帝国の陸軍は世界最強であり、海軍もイギリスに次ぐほどであった。それに比べて、当時の我が国日本は近代化して間もない弱小国であり。ロシアの国力の差は大人と子供であったからだ。それに皇太子であるニコライ二世を切りつけられた事により、激怒したロシア帝国が宣戦布告してくるのを日本人は非常に恐れていた。特に陸軍は日本のおよそ5~6倍の上に当時世界最強の上に海軍の総トン数は日本の数倍である。幸い当時の天皇陛下である明治天皇が自ら御見舞いに行った事を評価したのか、ロシアは日本に報復や制裁を全く行わなかった。もしこの時に戦争を仕掛けられたら日本は負けて、ロシアの植民地になっていた可能性が高いと思われる。この時は非常に運が良かったとしか言いようがない。

 次に日本人がロシアに抱いた認識は「反露」と「征露」である。日本人がロシアに反感を抱くようになったその原因は、日清戦争で日本が清国に勝利した1895年の4月に日本と清国の間で、日清戦争講和条約である下関条約が結ばれた。その内容のひとつに、「遼東半島を日本に割譲する」というものが存在した。しかしこの内容は当時の南下政策を取っていたロシアを刺激しドイツ、フランスを誘って三国干渉をしてきた。三国干渉の内容をざっくり言うと「日本は遼東半島を放棄しろ」である。ロシアは中国、朝鮮半島に進出したかったので遼東半島を喉から手が出るほど欲しがっていた。よって日本に三国干渉という圧力を掛けた。当時の日本はこの三国を敵に回す程の国力と軍備はなかったので日本は渋々この要求を受託した。ロシアの領土欲は今も昔も変わらず尽きないのは間違いないようだ。

また、1900年に起きたロシア軍がブラゴヴェシチェンスクに在留していた清国人を大量虐殺した事も日本人の反露に拍車を掛けた。この時のロシア人の残虐さは1945年のベルリンと満州でも再現されることになる。

 その後もロシアは清国と朝鮮内で勢力を急激に拡大していった。更に日本の反露感情を増大させる出来事が起きる。1899年3月に起きた義和団という宗教団体が中国から外国勢力を排除しようとした義和団事件だ。この事件では日本、ロシアを含む八カ国が軍隊を出し、義和団を制圧した。ロシアはこの義和団事件終結後に、各国の軍隊が次々と引き上げていく中で逆に兵を増強し満州に留めて占領した。当時清国に租借地を持っていた英国と清国の抗議を受けたが部隊の一部だけが撤退するだけであった。この南には当時の日本が生命線と考えていた朝鮮があり、しかもその朝鮮にもロシアの影響力が強まりつつあった。一連のロシアの動向に警戒感を感じた日本は国力の半分以上を陸海軍への軍事費に充てた。

 次は自分の番だと直感した日本は、当時中国に租借地を大量に持っており、ロシアの中国に対する南下政策を懸念していたイギリスと利害が一致したので、1902年に日英同盟を結びロシアとの戦争に備えた。日英同盟のことを知ったロシアは1902年4月に満州撤兵に関する協定調印に参加したが、その調印を破棄するかのように、およそ一年一ヶ月後の1903年5月に竜巌浦に軍事根拠地と要塞等の建設を開始した。

このロシアの行動により当然のことだが日本の世論は激昂し、ロシアとの開戦を主張が一般的となった。日露開戦を主張する対露同志会や戸水寛人ら帝国大学教授の七博士を中心に、マスコミは直ちにロシアと戦うべきと主戦論を唱え、日本の世論もこれに同調した。それでも当時の大国であるロシアとの戦争をなんとか避けたい日本は、1903年にロシアとの日露交渉を試みた。交渉において、『ロシアは日本の朝鮮半島の権益を守るかわりに、日本はロシアの満州権益を守る。日本とロシアはお互いの権益を侵害しない』という内容を日本側は提示するが、ロシア側はこれを拒否。逆にロシアは『我がロシアの満州権益の保護 朝鮮を独立させて領土を保全 朝鮮の軍事的利用は禁止 北緯39度線以北を中立地帯化させる事』を日本へ対して要求してきた。

この後当然ながら交渉は決裂し、日本はロシアとの戦争準備を固めて、1904年の2月4日の御前会議にロシアへの宣戦布告を決議した。日本軍は2月8日に韓国の仁川に上陸し仁川沖と旅順口にいるロシア船に攻撃し宣戦布告をした。日本軍はロシアの頑強に守られた要塞と機関銃陣地などで多大な損害を出しながらも果敢に戦い、1905年の1月には要塞化されていた旅順港を占領した。同年5月には世界の海戦史でパーフェクトゲームと言われている日本海海戦ロシア海軍バルチック艦隊を38隻の内21隻を撃沈して完膚なまでに壊滅させた。もし日本海海戦で負けていたら、大陸のいた日本陸軍に補給が届かず降伏し日本は敗戦していただろうと僕は思う。日露戦争は日本の命運をかけた戦争だったと言える。

自分としては「恐露」から「反露」と「征露」に変遷していった日本人のロシア認識は正しかったと言える。なぜなら今の歴史が証明しているからだ。

旧ソ連満州樺太侵攻然り北方領土問題然り